November 30, 2008

ブログがPhotobucket広告に埋まる:Upgrade to PRO messages all over my blog

It urges you to upgrade ASAP. こんなに賑やかに埋めなくたって(source

I checked my blog last night and I couldn't believe my eyes! Photobucket's ads were taking over my blog! Just like here where I got my template from. Obviously I forgot to transfer all the image files to my host. I changed my template right away and they're all gone. That was quite a mess. -Never rely on somebody else's account!

昨日ブログがPhotobucketの広告に埋まるハプニングがあった。「容量オーバーです。広告外して欲しかったらPROにアップグレードしてください」と50個ぐらい賑やかに出てレイアウトもガタガタ。とても読めない。

トップの画像を外したけどまだダメで、テンプレートをいただいたを見たら、同じ目に遭ってたので、このブログってよりはデザインの人気が出てボタンとかレイアウトの素材のヒット数で容量オーバーになったみたいね。ああ、自分のギャラリーにコピーしておくんだった!

レイアウト変えて片付いたけど、それにしても派手だわね。どこから見ても「お金のないスパムブログ」である。みなさんもレイアウトの容量オーバーにはくれぐれもご用心。

nobさんの訳本到着!:Subject to Change - Adaptive Path


The TechCrunch Japan's colleague, Nob Takahashi, just finished his first translation work; Subject To Change -Japanese Edition.   Neatly done, Congrats!

TechCrunch日本語版のnobさん=高橋信夫氏の訳本が届いた!

タイトルは『SUBJECT TO CHANGE』。サンフランシスコのプロダクトデザイン会社「Adaptive Path」の共同創設者ピーター・マーホールズ氏ら4人が共同執筆した本である。Ajaxの名付け親の共同創設者ジェシ・ジェイムズ・ギャレット(Mozillaと共同開発のAuroraで記事になった)が序文に;
未来はますます、予告なく変更される(Subject to Change)ようになる
と寄せたように、タイトルは「変更あり」の意の警告文句。スチュワート・ブランドが著『How Buildings Learn』に記した言葉「あらゆる建物は予言であり、予言はすべて間違っている」(本書p.90)にも通じる、予測不能な未来をあらわしている。

技術も情報もおなか一杯な時代、機能をどっと盛り込んでも人は戸惑うだけ。人が本当に求めているものを使う人の「感情・文化・意義・文脈」(第3章)で酌み、モノ単体ではなくシステムで考えるデザインが求められている。デザインはもはやデザイナーだけの仕事ではない。「戦略、システム、デザイン」が3位一体の、組織としての取り組みが必要になる、というお話。

成功例はiTunesやコダック、P&G、スタバ、Tivo、Netflix、ダイソン掃除機、ターゲットの薬瓶、Flickrなどで、失敗例はセグウェイ、台所のネット家電、モバイルESPN、匿名クライアント各社など。でも、同じアップルでもG4 CubeはMOMAに陳列されるほど美術価値の高い製品ながら「失敗例」だ。つまりここで言う「デザイン」は意匠ってよりは設計・開発・構想に近い。どっちかって言うとビジネス書か?

顧客体験といえば先日、1983年のfrog designのアップルの話でこんな一節があった。;
「アップルはコップについて考えるだけじゃなく、喉の乾き(thirst)そのものの性質を考える」
昔からある発想なんだろうけど最近この欲求(desire)を突き詰めたいという欲求が企業の側にも広まってるようで、FBIのプロファイラーじゃないけども、ユーザや顧客の自宅・職場(フィールド)に出向いて24時間密着して、その生活感情・文化・文脈を徹底的に洗い出す「エスノグラファー(民族誌学者)」なる仕事師も登場した(p.59)。これはもう美大や工学系の仕事じゃなくて、文化人類学の領域だという。おもしろい(エスノグラフィの解説)。

終盤は変化に即応するアジャイルの心得・実践のコツ。ザッとそんな構成だ。私はデザインは門外漢だけど、瓢箪から駒でGizmodoの方向性考えるヒントに大いになってしまった。こんな絶妙なタイミングで送って下さったオライリー・ジャパンさんとnobさんに感謝!

訳文はnobさんらしいキチッとした文章で安心して読めました。タイポはp.57の「定性調査(quantitative)」がqualitativeかな?というのと、あと1ヶ所ひらがなの抜けがあった程度(敢えて心を鬼に…^^;)。でもこの長さでこれっぽちなんて毎日タイポ連発の私から見たら人間じゃない集中力だ。おめでとうございます!

(おまけ)本書の共著者Brandon Schauer氏とDavid Verba氏の2人がグーグル本社で本に書いた内容をレクした時の動画;




Amazon.com: Subject To Change

November 24, 2008

欧米のQ&A「医師が社会的常識に欠けるのは何故?」: Aso "Many Doctors Lack Common Sense"


Japan's outspoken Prime Minister, Taro Aso, has been constantly making national headlines.  The most recent example;
"I readily understand that hospitals in rural areas are having trouble getting doctors. There are many (doctors) who lack a fair degree of common sense. Their values are very different." (Kyodo News)
He quickly retracted the remarks and apologized the inappropriate wordings but doctors remain furious.  It's quite interesting because I don't really require them common sense or social skills.  If they spend long hours working in hospital, they won't have time or attention left any way. What matters is the medical skill, knowledge, focus and passion. Below I translated the discussions posted here.

麻生総理の「医師は社会的常識に欠ける」発言が波紋を呼んでいるが、私はそもそも医師に社会的常識を求めないので、騒ぐ国民、謝る首相、怒る医師、みんな奇妙に見える。朝から晩まで患者のことで頭がいっぱいな長時間勤務の医師を常識で判断してどうするんだろう。社会に気遣ってる間に目の前の患者が死んじゃうって…

と念押しした上で欧米のお医者さんイメージが伺えるQ&Aをご紹介。「社会的常識」という言い回しこそないけれど、総理の発言と言ってる内容はそんなに違わないと思う。

Yahoo! HotJobs 「医師は何故あんなに傲慢なの?」


Q「マンチェスター(英)の病院勤務の者です。悪く書くつもりはないんですけど医師ってとても偉そうに見えます。すごく無愛想というか…。同じ部屋にいても気にも留めない。「ハ~イ」とも言ってくれないんです。何故?」(質問者:gu2_adさん)

A(ベスト回答):
多くの場合、これは単にストレスと仕事量超過の組み合わせです。今はどこもかしこも医者不足。人口の高齢化、慢性病の増加のせいですが、それも原因のほんの一端で他にも様々な要素が絡み合って問題を複雑にしています。

それと、多くの場合、医師は“考え事”してるんですよ。これは良いことです。いや本当に!;) 私たちみたいな分析担当は頭の中で考え事して、論拠全てカバーしたかどうか確認してることが多いですね。あなたの症例に意識集中している時は、人間がそこにくっついてることも忘れてしまっちゃったり。悪気は全然なくて、単に医師の多くがそういう風に機能してるということです。仕事に集中したり多忙で、そんなつもりもないのに誰かを無視したこと、あなただってあるでしょ? 

どう見たって感じの悪い医者(彼らも人間です。そういう人もいます)のために言い訳探してるんですけど、あれは「悪気はないはず」と一旦疑ってみて下さい、ということに。私だったら悪気にはとらないです;)  

一般にベッドサイドのマナーは看護婦の方が良いとされます。医師はその面では改善が必要なところも多い。でも何度も言うようですが、医師は邪険にしようとしてそうなってるわけじゃないんです。医療がこういうタイプを作るんです。…僕らは頭の中に沢山考え事を抱えてることが多いし、このタイプは患者との対話よりデータ、専門技能、マシンを好む人が多いので。と言っても、医師にも無茶苦茶フレンドリーでおしゃべりな人もいますから、十把ひとからげにはできませんよね。がんばってね!

A: 一度立ち止まって、こう考えてみたことはないかね? ―病気の問題じっくり考えてるんじゃないかって。 (何年も医者になる勉強した後だし)誰かの病気のことに気をとられてるんじゃろうよ。ワシなら社交的で礼儀正しくて“ナイス”な医者より、うちの孫娘の病気一所懸命治そうとしてくれる無愛想な医者の方がいいがね。(回答者:Blueさん)

A: 政治家とそっくり同じ自治のエリート主義者集団。"無知なろくでなし"という言葉がむしろぴったり。(回答者:goldenさん)

A: この中で医師・医学生は何人います? 医学部で何を教えるか、医学部・医師の生活でどれだけ社交スキルが要求されるか、当事者でもない人にどうして分かるの? 医学部なんて入るだけで膨大な“社交スキル”が要求されるのに。1人か2人か3人の医者の経験で“全員”を無愛想だとかろくでなしだとか知りもしないで罵るみなさんこそ無知ここに極まれりでしょ。医療に従事する医師全員に会ってみたわけでもないのに一般化は控えるのが一番ですよ。 大人になれって。(回答者:Rick Rossさん)

A: 昔からあるジョークが少しは参考になるかな。
「神と医者の違いは何でしょう? 回答:神は自分を医者とは思ってないのさ!」


(photo by Julie70)

店に忘れた携帯から妻のヌード流出の夫、マクドナルドを提訴:McDonald's Sued over Nude Photos


Never leave your phone with your wife's intimate photos....

マクドナルドに置き忘れたiPhoneから妻のヌードがウェブに流出した男性が金曜、店長と本社を訴えた。

原告フィリップ・シャーマン(Phillip Sherman)さんは今年7月5日、米アーカンソー州Fayettevilleのマクドナルド店内に携帯をうっかり忘れ、問い合わせたところ店からは本人が引き取りにくるまで保管しておくと告げられたという。

ところがその日を境に妻ティナ・シャーマン(Tina Sherman)さんに脅迫電話やIMが届くように…。不審に思って調べてみると、妻が夫の携帯に送ったヌード写真が本名・メールアドレス・住所・電話番号と一緒にネットに出回っていることが分かった。

奥さんの名前は土曜グーグル人気検索語上位になったが、元写真は削除済み。夫婦は画像リークで精神的苦痛・羞恥・名誉毀損を受けた上、引越し代もかさみ、収入にも穴が開いたとして、300万ドル(約3億円)の損害賠償を求めている。

「妻のヌードの入った携帯は死んでも手放すな」とマスコミは警戒を呼びかけている。

[AP]

November 23, 2008

オバマの母アン・ダナムの物語-Part 3:The Story of Barack Obama's Mother - TIME

 
(c) TIME

Part 2からのつづき)

アン・ダナム・ストロ時代―Ann Dunham Sutoro

ホノルルの小さなアパートで大学の奨学金で生計を立てながら3年間子どもと一緒に暮らした後、アンは博士号取得のフィールドワークのためインドネシアに戻ることに決めた。当時14歳ぐらいだったオバマは自分はハワイに残ると言った。新参者になるのはもう嫌だった。自分のやりたいようにやらせてくれる祖父母の存在も有難かった。アンは反論しなかった。ジャカルタの友人Mary Zurbuchenさんはこう振り返る。「アンはずっと自分の中のある特定の部分には触れずに超然と距離を置くというか、斬り捨てていました。ある意味それができたから、あんなにも多くの国境をまたいでこれたんだと思います」

息子はバスケのことしか頭にないみたいよ ―アンはインドネシアで友だちにこう冗談を言って笑った。「社会的良心なんて一生持てっこない子だって、サジ投げてましたよ」 (元同僚Richard Pattenさん)

離婚後、アンは「Sutoro」というもっと今風なスペルの名前を使い始めた。フォード財団の女性・雇用プログラム担当官という大任に就き、スタッフとの会議では有無を言わさぬ調子で率直に話した。他の多くの海外駐在員と違って、彼女は村人との対話に長い時間を割き、女性の仕事に特にフォーカスを当てながら、彼らに差し迫って必要な優先課題や問題を調べ上げた。「ジャワの市場を足で回ったことが大きな影響を与えていました」と友人のZurbuchenさんは言う。「そこに行けば背中に重い籠を背負ってる女たちが、朝3時に起きて市場まで歩いてきて、農作物を売る姿も目に入るわけです」。フォード財団はもっと政府から離れて、もっと人々の傍に近づかなくてはならない。―アンはそう考え、まさにその通りのことを実践した。

彼女の家には政治家、映画監督、ミュージシャン、労組勧誘員など各界から雑多な人々が集まり、権力者と社会の周辺の人々の社交場となった。「財団の同僚に比べても彼女の交友関係はもっと多方面に広がりがありましたね」とZurbuchenさんは言う。「彼女の手にかかると、それこそ考えられないような組み合わせの人同士が膝を交えて、一緒に話の輪に引き込まれてしまうんです」

オバマの母親は貧しい女性の支援を深く気にかけていたし、自身も混血の子2人の母だった。ところが子どもたちは2人とも、アンが性差別や人種差別のことを話題にした記憶がない、という。現在ホノルルの女子高で歴史の教鞭を執るソエトロ-ンさんは 「母はほとんどいつもポジティブな言葉で語っていました。自分たちは何をやろうとしているのか、自分たちに何ができるのか」 。「イデオロギーの人ではなかったですね」と指摘するのはオバマだ。「そこは私も母譲りなところだと思います。お経のようなうわべだけの決まり文句は、疑ってかかる人でした」

男並みの給料が欲しいもんだわ―と冗談を飛ばす母の記憶はあるが、それは決して足のむだ毛剃りをやめる(女を捨てる)という意味で言っているのではなかった。最近フィラデルフィアで人種について演説し黒人白人の抱える不満を述べた際、オバマは意識的に母親にチャネリングしていた。NBCのニュースに氏はこう語っている。「スピーチの原稿を書いていたら母の記憶がヌッといきなり襲ってきたんです。これを聞いて母はどう思うだろう?信用するだろうか?…と」 。人種に話が及ぶとオバマは私にこう語った。「母はアフリカ系アメリカ人の政治に対するアグレッシブな施策や軍事的アプローチを完全に容認していたわけではないと思います」

1980年代のアジア外国人駐在員社会ではシングルマザーはまだ珍しかった。アンの存在は目立った。その頃にはもう黒い縮れ毛の、随分と大柄な女性になっていたが、インドネシアは異様に寛容な土地柄である。「特にアンのように強烈な個性と存在感を併せ持つ人のことも、インドネシアはとても温かく受け入れてくれる。それが彼女にも、ここに自分の居場所がある…という感覚を与えたんでしょう」(Zurbuchenさん)。家でアンは伝統的な女物部屋着のバティック染めのダスターを身にまとい、簡素な昔ながらの食堂をこよなく愛した。友人たちは今も、道端の屋台で買った「bakso bola tenis」という、テニスボールぐらいもある大きなミートボール入りの麺をアンと分け合った時のことを覚えている。

今の時代ならアンのような人もそれほど珍しくはない。混血の子どもを抱えながらキャリアを追求するシングルマザー。 彼女が先鞭をつけたものは、ある意味、アメリカがこれから辿る未来図そのものだった。が、アンはただ黙々とそれを実践していたのだと、友人たちは言う。「ステレオタイプに収まる人では全然なかったですね」と振り返るのはアンと親交のあった環境社会学者Nancy Pelusoさん。「でも、それを殊更に騒ぎ立てる人でも、なかったんです」

アンの仕事で最も後世にまで長く残る遺産、それはインドネシアのマイクロファイナンス事業立ち上げを支援したことだ。彼女は1988年から1992年までこの仕事に携わった。―信用の乏しい事業者に小口融資を付与する業務が今みたいにサクセスストーリーとして確立する、もっと以前の話だ。現実に人々がどのように働いているのか、実態を調べたアンの文化人類学研究はインドネディア国営庶民銀行(Bank Rakyat Indonesia)の策定した方針と情報を擦り合わせる上で一役買ったと、同行元勤務の経済学者Pattenさんは言う。「このプロジェクトの成功には彼女の仕事がかなり貢献していたと言ってよいでしょう」。マイクロファイナンス動向追跡団体「Microfinance Information eXchange Inc.」によると今日インドネシアのマイクロファイナンス事業は利用会員3100万人。その貯蓄人口は世界一を誇る。

母親がインドネシアで貧しい人々を助けている時、 7000マイル(約11,300km)離れたシカゴではオバマがちょうど地域のオーガナイザーとして同じような仕事に明け暮れていた。アンは息子の転職を心から喜び、それからは口を開けば決まって何はさておき子どもの近況報告だった、と友人たちは言う。「オバマがどの学校に行ったか、仲間内で知らない人はいませんでしたよ。どんなに優秀かも、みんな知ってました」―アンの友人Georgia McCauleyさんはこう懐かしむ。

アンはしょっちゅうマイクロファイナンスの仕事でインドネシアを離れ、ハワイやNY—1980年代半ばには一時パキスタンにも滞在した。娘と2人、友だちのアパートのガレージや空き部屋に泊めさせてもらったこともある。旅先では宝物を集めた。―宝物と言っても自分に理解できるストーリーを備えた趣味の良い品々である。例えばジャワの伝統に則り奇数のカーブを施したアンティークの短剣や風変わりなバティック染め、田んぼの野良仕事で使う帽子なんかだ。1984年ハワイに帰る前に友人Deweyに宛てアンはこう手紙に書いている。「娘と2人分の荷物を全部機内に積み込もうと思ったら、らくだのキャラバンと象が1頭か2頭要るわね。でもそれじゃあ航空代理店が泣き喚くだろうし」。今もオバマのシカゴの自宅にはカンザスから送られてきた母親の矢じりのコレクションと一緒に、「どう使って良いものやら見当もつかないバティック更紗がいっぱいに詰まったトランクがいくつもある」(オバマ)という。

 
Batik (via)


1992年、母親はついに博士論文を終わらせた。仕事の合間を縫って20年近くかけて書き上げた労作である。分量は1000ページにおよび、インドネシアにおける野鍛冶の仔細な分析が記されていた。「完成には程遠い」とアンが言う用語集だけで24ページ。苦労の末の学術書は母親とアドバイザーのDewey氏、そして「母親が野外調査の時も滅多に文句を言わなかったバラクとマヤ」に捧げた。

1994年秋、アンは友人のPattenさん宅でディナーの途中、胃に痛みを覚えた。地元の医師の診断は消化不良。数ヶ月後ハワイに戻ると、卵巣・子宮がんと診断された。1995年11月7日、アンは52歳で他界した。

亡くなる前にアンは息子の回顧録(『Dreams from My Father』)の草稿を読んだ。 本はほとんど全部と言っていいほど父親の話である。友人の中にはこのフォーカスに驚いた人もいたが、彼女は意にも介さない風だった。「一度もそのことで文句は言いませんでしたよ」とPelusoさんは言う。「あれは彼がどうしても自分でいつかは答えを見つけなきゃならないことだったんだよって、そうひとこと言っただけでした」。アンも息子も2人に残された時間が長くないことは、知る由もなかった。

自分が犯した最大の過ちは母親の死に目に傍にいてやれなかったことだとオバマは言う。ハワイに飛んで、太平洋に遺灰を撒く家族を手伝い、そして彼女のスピリットを胸に抱いて選挙で全米を駆け回った。「バラクが笑うと」とPelusoは言う。「それはもう、アンそっくりなんです。顔がパッと明るくなるところなんて、アンもそうだったなって」

アンの死後、娘は生前書き残した自分史があるはずだと思い、遺品を掘り返して探した。「自伝はずっと本当に書きたがっていましたから」(ストロ-ンさん)。やっとのことで探し当てた人生録の書き出しは、しかし、2ページにも満たない。それ以上はもう、どこをどう探しても見つからなかった。時間切れだったのだろうか。それとも抗がん剤で精根尽き果てていたのだろうか。「理由は分かりません。きっと、自分でも手に負えなかったんだと思います」とストロ-ンさんは語る。「伝えたいことがあまりにも多過ぎて」 □


執筆:Amanda Ripley(ホノルル)/取材:Zamira Loebis、Jason Tedjasukmana(ジャカルタ)

translated texts here are copyrighted to the translator, **satomi ichimura

Part 1 / 2 / 3

[Original Article: The Story of Barack Obama's Mother - TIME]

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翻訳を終えて見た映画に、こんな一節があった。
As I finished translation, I saw this movie and found this passage;


"Guess Who's Coming to Dinner (1967)"(邦題:『招かれざる客』)

(作品)オバマ誕生の6年後の1967年、サンフランシスコが舞台の映画。差別撤廃に一生を捧げる新聞王の愛嬢が新聞配達の息子と旅先のハワイで恋に落ち、実家に結婚の承諾を求めにくる。一流の医師に育った婿役はシドニー・ポワチエ、父親役は闘病を押して本作に挑み撮影終了から17日後にこの世を去ったスペンシー・トレイシー。恋人キャサリン・ヘップバーンとは最後の共演となった。

(上の場面[参考])
父「子どもが将来苦労することは考えたのかね?」
婿候補「はい。苦労するでしょう。でも結婚するからには子どもは欲しいですね」
父「娘も同じ気持ちに?」
婿候補「彼女は『子どもは未来の大統領よ。国が明るくなるわ(色とりどりの政権になる)』と言ってくれました」
父(無言で頷く)
婿候補「お嬢さんとはまだハワイで知り合ったばかりですから、きっとおとうさんの教育の成果です」
父「君はその問題についてどう思うんだい?」
婿候補「僕はそこまでは…国務長官ぐらいかと…」(父親が冗談にムッとしてるのを見て咳払い)

オバマの母アン・ダナムの物語-Part 2:The Story of Barack Obama's Mother - TIME

 
(from left )Lolo Soetoro, Ann Dunham, Maya, Barack (c) Reuters

Part 1からのつづき)

スタンレイ・アン・ダナム・ストロ時代―S. Ann Dunham Soetoro

息子がもうじき2歳になる頃、アンは大学に戻った。家計は苦しかった。政府の低所得層向けの食券を集め、子どもは実家に預けた。4年後、学士号取得。在学中ハワイ大で留学生ロロ・ストロ(Lolo Soetoro)と出会う(「婚活の友達にはハワイ大に行けって言うのよ」―自分も大学で結婚相手[コンラッド・ン助教授]を見つけた娘ストロ-ンさんは笑う)。楽天家のロロは、義父のチェスや息子のレスリングの相手を何時間でも喜んでした。ロロがプロポーズしたのは1967年のことだ。

母と息子はロロの後を追い、何ヶ月もかけてインドネシア行きの渡航準備を整えた。—予防接種、パスポート、航空券。ふたりとも国を離れるのは初めてだ。長旅の末に着いたのは見たこともないような土地だった。のちにオバマはこう述懐している。「飛行機から歩いて降りると、地面のタールマックが熱気で波打っていた。太陽は溶鉱炉のように眩しく照り付ける。母の手をしっかり握り、自分が守ってやるんだと、そう心に決めた」

ロロの家はジャカルタ郊外にあった。ホノルルの高層ビルから長距離移動で着いた先は電気も通っていなければ、道も舗装されていない凸凹道だ。国はスハルト将軍の支配下に移行する過渡期で、600%の勢いでインフレが進み、あらゆる物資が不足していた。アン親子を知る地元の人たちによると、ふたりはその界隈では初めての外国人だったという。家の裏庭はクロコダイルの赤ちゃん2匹、鶏、天国の鳥たちが占領していた。

近所の子と仲良くなりたい一心でオバマは、家の仕切りの壁に座って両手をビッグバードみたいにバタバタさせながらカーカー鳴き声を上げていた。幼馴染の女性Kay Ikranagaraさんはその姿を今も覚えている。「あれで子どもたちが笑い出してね。あとは一緒になって遊んだんですよ」

オバマはカトリック系の小学校「Franciscus Assisi Primary School」に通った。ただでさえ外国人なうえに、地元の子よりデブなオバマは目立つ存在だったが、からかわれても軽く受け流し、学校のみんなと同じように豆腐とテンペを頬張り、サッカーボールを追いかけ、グアバの木から実をもいで食べた。「ネグロ」と呼ばれても頓着する素振りもなかったと、近所に住んでいたBambang Sukocoさんは語る。

最初は戸口にくる物乞いに片っ端からお金を施していたオバマの母だが、手足のない子、ハンセン病患者など恵まれない人が次から次へとやってきて終わる気配もない。やむなく相手を吟味して施すようになった。相手の苦しみの度合いを真剣に秤りにかけるのを養父は笑い、オバマに言ったものだ。「お母さんは気立ての優しい人だね」

アンがインドネシアに傾倒するにつれ、夫は西欧かぶれになっていった。アメリカの外資系石油会社で昇進し、一家はもっと良い住区に引越した。夫が連れ出すディナーパーティーは、アンには退屈だった。男はゴルフのスコアの自慢、妻はインドネシア人の召使いの悪口。夫婦喧嘩は滅多にしない2人だったが、共通の話題はみるみる減っていった。「孤独に対処する心の準備が母にはできていなかった」とオバマは『Dreams』に記している。「それは絶えず続いた。まるで息切れのように」

アンは米国大使館で英語教師の仕事に就いた。彼女は生涯、日が昇るよりずっと早起きの人だった。毎朝4時には息子の部屋に行き、アメリカから通信教育の教材を取り寄せて英語を教えた。エリートの子弟が通うインターナショナルスクールは学費が高くて通わせてあげられない。勉強が簡単過ぎるんじゃないかと心配してのことだった。オバマは2年通ったカトリック系スクールから、引越し先に近い州立小学校に転校。学校で外国人は彼ひとりだった、と同窓生のAti Kisjantoさんは言う。でもオバマはインドネシア語も片言しゃべり、新しい友だちを作った。

Jakarta Classmates shouting "Long Live Obama" (March 1, 2008, Jakarta)
「オバマ万歳!」と気炎を上げるジャカルタの
同窓生たち(c) Reuters

インドネシアのイスラム教人口は世界最大だが、オバマの家は宗教熱心ではなかった。「母は、バプテスト派もメソジスト派も名ばかりで宗教に熱心でない親の間に育った人ですが、私が知る中で最もスピリチュアルな魂の持ち主でした」とオバマは2007年の演説で述べている。「しかし、制度としての宗教には健やかな懐疑心も持ち併せていた。だから、私もそう育ったんです」

アンはアンなりのやり方で、息子の生活圏内に黒人がひとりもいない部分をなんとか埋め合わせようとした。夜になると仕事帰りに公民権運動の本やマヘリア・ジャクソンのレコードを仕入れてきた。そして人種の調和に単純な憧れを抱いた。「初期の[マーチン・ルーサー・]キング博士の時代から抜け出てきたような人でした。肌の色は違っても中身はみな同じ。偏見はどんなものであれ間違っている。よって目指すべきゴールは、どんな人でも独立した個人として扱うことだと、そう信じてました」 (オバマ)。1970年に生まれたオバマの妹には、あらゆる肌の色の人形を買い揃えてやった。「三つ編みのおさげを結った黒人のかわいい女の子、イヌイット、サカガウィア、木靴履いたオランダの小さな男の子…まるで国連でしたよ」とストロ-ンさんは笑う。

1971年、アンは10歳になるオバマをハワイに帰らせ、親の口添えで奨学金を獲得したエリートのプレップスクール「Punahou」に実家から通わせた。それだけ教育を重視していたということだが、彼女にとってはとても辛い選択だったとアンの友人たちは言う。オバマは自著で、疎外感が自分の青春に陰を落とした、と述べている。私にはこうも語った。「(母がそばにいないことを)喪失とは感じませんでした。でも、遠く別れたのは事実です。それを思うと自分が考えている以上に影響はあったのかもしれません」

やがて1年が経ち、アンは約束通りバラクの待つハワイに帰った。娘の手を引き、夫は後に残して。そしてハワイ大修士課程に入り、そこでインドネシアの文化人類学を学んだ。

インドネシアは文化人類学者にとっては謎に満ちた不思議の国である。1万7500もの島嶼から成り、2億3000万人が300を超える言語を話す。その群島文化は仏教、ヒンズー教、イスラム教、オランダの伝統で彩られている。インドネシアは「多くの人を吸い込んでしまう」と語るのは、文化人類学者の仲間で友人のアリス・デューイ(Alice Dewey)さんだ。「愉しいんです」

この時期辺りを境にアンは自分の意見を声に出して言う人になる。それまでの彼女を知る人はみなアンを「物静かで知的な人」だと語った。そのあとに知り合った人たちは「歯に衣着せぬ」、「情熱的」という表現を使う。しかも修士研究はタイミングも完璧だった。「地球全土で変化が進行していました」とデューイさんは言う。「植民地支配の勢力が崩壊し、諸国は支援を必要としていた。文化人類学者の間でも開発の仕事への関心が芽生え始めていた時期ですね」

アンの夫はハワイを頻繁に訪れたが、二度と同居することはなかった。1980年にアンは離婚届けを提出。オバマの父親の時と同じく、ロロとも別れてからも定期的に連絡を取り合った。離婚記録には、扶養手当や子どもの養育費は求めなかった、とある。

「母は人より飛びぬけて楽観主義というほどではなかった。子どもを前に愚痴をこぼすこともそりゃありましたよ。でも、離婚の残滓で世の中の男全員を見たり、愛がこうだと決め付ける人じゃなかった。ましてや悲観論者になる自分を許す人ではなかったんです」(オバマの妹のストロ-ンさん)。破局に終わった結婚からアンは、ひとりずつ子どもを授かった。もうひとつの祖国も。

 
Barack Obama with Maya in Barack's high school graduation
高校卒業式のバラク・オバマと異父妹マヤさん(via)

Part 1 / 2 / 3

[Original Article: The Story of Barack Obama's Mother - TIME]

オバマの母アン・ダナムの物語-Part 1:The Story of Barack Obama's Mother - TIME

 TIME: April 21, 2008 Cover

Obama has something his predecessors in the civil right movement rarely showed in public; the smile.  If you want to learn more about a woman who gave him it, TIME's "The Story of Barack Obama's Mother" is the best to start with.  NY Times' "A Free-Spirited Wanderer Who Set Obama’s Path" is also informative.


"The Story of Barack Obama's Mother"

by Amanda Ripley/Honolulu, April 9, 2008, TIME


人はみな、相矛盾する真実を生きている。ひとつを取ればひとつが嘘というものではない。バラク・オバマの母親は少なくとも12の顔を持つ人だった。

スタンレイ・アン・ストロ(S. Ann Soetoro、Ann Dunham/アン・ダナム)は10代で出産し、文化人類学で博士号を取得した。中西部出身の白人女性で、故郷よりインドネシアの暮らしが性に合っていた。母親になるために生まれたような女でありながら仕事中毒。恋愛では現実主義者だった(そんなことが可能なら)。

「今思うと母はいつも、自分が何者で、何を信じているのかに、強く拘るところがありました。そのくせ無鉄砲な一面もあった。常に何かを探し求めていたのだと思います。型にはまった人生は真っ平ごめん、そんな人でした」と、オバマは最近私に語った。

オバマの母親は夢追い人だった。リスキーな賭けをはり、見返りが回収できることはほとんどなかった。でも子どもたちはそんな彼女の選択に付き合って生きていくほかなかった。

恋に落ちたのは、2回。相手は見知らぬ遠い異国から来た留学生だった。どちらも結婚は失敗に終わり、残された子ども2人の子育ては両親や友人の援助に頼った。

「よく泣く人でした」と、(オバマと異父妹の)娘マヤ・ストロ-ン(Maya Soetoro-Ng)さんは振り返る。「ニュースや悲しい映画で酷い扱いを受けている動物とか子どもを見ては泣き、話し相手に自分のことが分かってもらえないと言っては泣きました」。それでいながら彼女は怖いもの知らずだった。「とても有能で。バイクの後ろにまたがって出先を回って綿密な野外調査もこなしてましたね。調査の中身も責任と洞察に裏打ちされたものでした。母は問題の核心を見抜き、責任の所在が誰にあるのか、それが見抜ける人でした」

今のオバマの人生には、母親を反面教師にした部分もある。異国に子を連れ去り、多感なティーンの時期を親元離して育てた母親とは対象的に、オバマは中西部という土地に根をはる人間に自分の子どもは育てたいと願った。「子どもには、母が自分にしてくれなかったようなかたちで安定した環境をつくってやりました。シカゴに根を下ろし、ひとつの土地にどっかり根を張った女性と結婚する生き方を選んだのも、たぶん自分が昔得られなかった安定を求める気持ちのあらわれかもしれません」(オバマ)

皮肉なことに、オバマの人生に最も大きな影響を与えた人物について我々が知りうる情報はとても限られている。アメリカでは今も、アフリカ人の血が流れていること即ち単なる黒人であり、肌の色が何にも増して先入観として根強く残っている。おそらくそのせいもあろう。満足に記録が残っていないのだ。

だがオバマはこの母親から生まれた息子だ。彼の話は断定ではなく聞き手の想像に任せる部分が多いが、それでも彼の母親が何かを信じて疑わないタイプの人だったことは言葉の端々にヒントが散りばめられている。政治を一度も信じたことのない人がオバマに寄附する時、彼らはオバマの中に母親譲りの、イデオロギーを排したパワフルな議論を展開する能力を見出し、そこを買っている。オバマが肌の色の違う大勢の群集の心を動かす現象は、宝石を見るかのごとき眼差しで異文化を見つめる親のもとに生まれた事実を抜きには語れないだろう。

オバマは生まれながらにして、人に希望を広める天職を背負ってきた。それはいわばファミリー・ビジネス(家業)のようなものであり、彼はこれを親から譲り受けた。オバマ自身は試練に試練を重ねて生きてきた人ではないかもしれないが、彼を育てた人はまさにその通りの人だった。

普通、選挙の予備選特集で候補者の亡母の横顔を雑誌が紹介することはまずない。だが、アン・ストロは普通の母親とは違った。

Obama's mom and grandparents(c) TIME

スタンレイ・アン・ダナム時代―Stanley Ann Dunham

ヒラリー・クリントンが生まれるわずか5年前の1942年、オバマの母親は戦時の緊張、差別、格差が不信を生む暗い時代のアメリカに生まれた。父親が男の子を欲しがっていたことから、つけた名前は(父親と同じ)男子名「Stanley(スタンレイ)」。からかわれても我慢し、新しい町に引っ越すと、自己紹介のたびに紛らわしい名前なことを謝り、高校を出るまでは改名するでもなく、ずっと義理堅くその名を引きさげていた。

生涯、彼女は4つの名を用いた。名前がそのまま人生の章立てになっている。18歳になるまでのスタンレイ時代、一家はカンザスからカリフォルニア、テキサス、ワシントンまで計5回引っ越しを繰り返した。引越し癖は、家具の営業マンだった父親譲りのものだ。

高校時代を過ごしたのはワシントン州の小さな島。哲学は飛び級で上のクラスをとり、シアトルのカフェに通い詰めた。「友情やニュースに関心のある、とても頭が良くて物静かな女の子でしたよ」と昔を偲ぶのは、高校時代の親友マキシン・ボックスさんだ。2人とも卒業後は大学に進学して就職する進路を目指していた。「子育てや結婚にはあんまり興味はなかったんです」とボックスさん。オバマの母親スタンレイは実は同級生よりシカゴ大学に一足早く合格したが、父親に「親元離れるのは早過ぎる」と反対され自宅にとどまった。

卒業後、父親は家族を連れてまた引っ越した。今度の行き先はホノルル。新しく家具大型店ができるという噂を聞きつけて即決した。当時ハワイは米国の州になったばかりで、新たなフロンティアだった。スタンレイは渋々従い、ハワイ大学に進学した。



バラク・H.・オバマ夫人時代―Mrs. Barack H. Obama

ハワイに引っ越す直前、スタンレイは生まれて初めて外国映画を観た。『Black Orpheus』(邦題『黒いオルフェ』)という、オルフェ伝説をリメークした悲恋物語で、カンヌ映画祭グランプリ、アカデミー賞外国語映画賞など受賞したミュージカルである。ロケ地がブラジルということもあり、その時代の作品としてはエキゾチックと思われていたが、脚本・監督はフランスの白人だ。お涙頂戴の、現代人の目から見るとどこか人を見下したようなところもある作品だ。

後年オバマは母親に連れられてこの映画を観に行った。途中でばかばかしくなって映画館を出ようと思って母を見ると、そこには16歳の昔に還った母がいた。「突然ハッと気づいたんです」―オバマは回顧録『Dreams from My Father』にこう記している。「銀幕で今見ている、この子どもじみた黒人。…母はこれをずっと何年も胸の奥にしまってハワイに行ったのだと。それはカンザス生まれの白人中流階級の娘にとっては禁断の、素朴なファンタジー(妄想)だったのだ。そこに行けばきっと熱く官能的でエキゾチックな、こことは違う何かが待っている、という憧れにも似た」

大学進学の頃までにスタンレイは「アン」と名乗るようになっていた。バラク・オバマ・シニアとは、ロシア語の授業で知り合った。氏はハワイ大学初のアフリカ人留学生のひとりとして大変な注目を浴びていた。教会で講演し、地元紙にも何度かインタビュー取材を受けた。「周りの人を磁石のように惹きつける人柄でした」と語るのは、オバマ・シニアと大学で親交のあったハワイ選出のニール・アバクロンビー(Neil Abercrombie)議員だ。「彼が口にすると、なんでも名文句になるんですよ。どんなありきたりの考察でもね」

オバマの父は大学ですぐ大勢の友だちを作った。「一緒にビール飲んでピッツァ食べてレコード聴いてましたよ」(アバクロンビー議員)。語り合う話題はベトナムのこと、政治のこと。「みんなあらゆる物事について自分なりの意見を持っていました。しかもみんな他人が自分の意見を聞きたがると思い込んでいた。バラクは誰よりもそうでしたね」

例外はアンだ。片隅にいる物静かな後輩女子は、秋口からオバマたちとつるみ始めた。「まだ高校を出たばかりだったし、大体はそばで見ているだけだったけどね」(アバクロンビー議員)。 オバマ・シニアが白人女性と付き合ってることは仲間も知っていたが、あえて騒ぎ立てることでもないという態度だった。結局ここはハワイ。人種が溶け合うメルティングポットが自慢の土地柄ではないか―。

だが時代は1960年代はじめである。ハワイで“メルティングポット”と言えば、それは普通は白人とアジア人を指した。当時ハワイで中国人男性と結婚していた白人女性は19%だが、それでも残りの米国からは急進的と見なされていた。黒人は州人口の1%未満。白人との異人種間結婚はハワイでは合法だったが、残りの半分の州ではまだ違法という時代だった。

アンは大学にいるアフリカ人学生の話を両親にし、両親は彼をディナーに招いた。父親はアンが手を伸ばして青年の手を握ったことには気づかなかった、とオバマは本に書いている。驚かせない方が賢明だとアンは判断した。「その時の母は、あの美しい黒人映画の映像が頭の中で流れている、例の少女だったんです」(オバマ回顧録)

1961年2月2日、知り合って何ヶ月かでオバマの両親はマウイで結婚した(離婚記録より)。アンは妊娠3ヶ月。結婚の知らせは式が終わるまで友人たちにも伏せていた。「誰も招待されませんでした」(アバクロンビー議員)

結婚した動機は今に至るまで謎だ。オバマも知らない。「母に詳しい事情は一度も問い詰めたことがないんです。妊娠したからなのか。伝統の型通りに父が母に求婚したのか。母がこの世にいたら、もっと聞いてたと思います」(オバマ)

1961年当時の基準から見ても、アンの結婚は早かった。彼女は1セメスター出席後、18歳で大学を中退した、とハワイ大学の記録にはある。ワシントン州の友人たちはこの報せに「みんな本当にショックを受けていました」と、高校時代の親友ボックスさんは語る。

やがてオバマがもうじき満1歳の誕生日を迎える頃、父親は経済学の博士号取得のためハーバードに旅立った。家族同伴で進学できる、もっと融通の利く奨学金がもらえるニューヨーク市のNew Schoolからも合格通知が届いていたにも関わらず、進学を決めたのはハーバードだった。「最高の教育をどうして拒否できよう?」―彼はアンにこう語ったと、オバマ回顧録にはある。

オバマの父親には、ある使命があった。それは「祖国に戻り、ケニアの改革に尽力すること」。新しくできた家族も連れ帰りたかったが、祖国には渡米前に結婚した妻もいた。法的拘束力のある結婚だったかどうかは分からない。だが結局アンは、夫を追わないことに決めた。「彼女は甘い幻想は抱えていませんでした」とアバクロンビー議員は言う。「彼はあの時代の男です。それに、家父長制の非常に強い国から来た人だった」。アンは1964年1月、ホノルル市内で離婚届けを出した。理由は「酷い精神的苦痛」―当時は離婚理由と言えばこれだった。オバマ・シニアは、異議申し立ては行わずマサチューセッツ州ケンブリッジで離婚届けにサインした。

アンは同じ世代の女性が普通では経験しえないことを既に経験していた。「アフリカ人と結婚し、子どもを産み、離婚」。この転機を境に人生は先細りも考えられた。年端もいかない社会的弱者の女性が、自分で家賃を払い、女手ひとつで子どもを育てる人生、である。消えた父親の悪口を息子の頭に吹き込むこともできたはずた。だが、そうはならなかった。

オバマは父親に離婚後1度だけハワイで再会した=写真=
このあと父親は帰国し米系石油会社とケニア政府に勤務。
1982年交通事故で他界した。享年46。(c) Wikipedia

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[Original Article: The Story of Barack Obama's Mother - TIME]

November 18, 2008

日本のキャラ51種:51 Japanese Characters

 

Japan according to 51 Japanese Characters. It's a project launched by Berlin-based artist Peter Machat while he was studying in Japan.  From the website;
"51 Japanese Characters" is an insightful collection of figurines showcasing several typical members and cultural phenomena of Japanese society - an easy and playful approach to Japan.
The selection is quite subcultural and its description is funny.  His art is sort of like Wii avatars meeting Takashi Murakami.  You can order the deck online for $23 US (+S&H).

51 Japanese Characters」はベルリン在住アーティストPeter Machatさんが日本留学中に立ち上げた日本紹介のプロジェクトだ。日本の典型的キャラ、流行のキャラを51種集めて解説をつけた。

絵はWiiと村上隆を足して2で割ったような感じで、セレクションはサブカル。デッキは2200円+送料で日本からでもオンライン発注できる。サイトは日英独から好きな言語を選ぶと、左上の紋がメニューになってるよ。英語の解説に入ってる種別・テーマのタイトルが日本語では少し抜けてるので拾っておこう。

[日本のキャラ51種]
風邪、伝統、祭、神主、パチンコ、ヤクザ、温泉、武道家、駅員、コスプレ、いらっしゃいませ、切腹、オタク、相撲、オカマ、成金、能、お坊さん、イケイケ、パラサイトシングル、オバタリアン、ヤマンバ、かわいい、着ぐるみ、受験生、侍、ホステス、芸者、ソープ嬢、暴走族、温泉サル、おやじ、居眠り、援交、月見、ルーズソックス、オフィスレディー、呼び込み、文楽、花見、外人、ホスト、酔っ払いサラリーマン、パンク、ふぐ、弾き語り、歌舞伎、痴漢、忍者、サラリーマン、ロカビリー

どういう国だよ!

[Plastic and Plush via tomopop via GMSV]

November 16, 2008

SiPort 解雇銃殺事件に思う:SiPort Triple Shooting

 

On the day Sun announced the massive layoff, we got this shocking news.  Silicon Valley is a tigt-knit community, and anybody can relate to the story. ( I, for example, live in Fremont where the killed CEO lived, and my friend's ex-boss is working at SiPort and he was asked to join the company.  The suspect was arrested in the shopping center where Japanese grocery shop is located in.)

Reading people's reaction posted here and here, you'll realize some locals see this as a revelation of Indochina conflict.  One victim's relative is reacting by saying his cousin is Caucasian American....  They should filter comment trolls for this sort of tragic event...

Some argue that the gun drove him to insane killing.  But look at Japan.  When it comes to the killing in workplace, people use every possible weapons anyway; kitchen knife, pesticide, thallium, potassium cyanide poisoning (1950, Tokyo University), oil of vitriol (1956), baseball bat (1956, Defense Agency; 1973, NYK Line), sodium cyanide (1960, Osaka), etc.

[SiPort Shooting]
Suspect:  Jing Hua Wu, 47, a test engineer who has been with SiPort for four years since it was founded. Married with 6-year-old twin boys and 2-year-old boy. A family man, who owns 3BR home (worth nearly $1M) in Mountain View.   Living in the states for at least 11 years.

Where:SiPort, semiconductor startup,  3255 Scott Blvd.Santa Clara
When: Nov. 14, sometime after 3 p.m. He was fired for poor performance that morning.  Arrested Saturday at 10:45 a.m. in a shopping center at El Camino Real x Grant Rd in Mountain View

Victims:  CEO, Sid Agrawal, 56 / HR Director, Marilyn Lewis, 67 / VP Operations, Brian Pugh, 47

Weapon: 9 mm handgun
Motive: unknown (UPDATE: He invested heavily in real estates. Source)

金曜は解雇の日。「土日で頭を冷やせるから大事には至らない」という温情だが、まさか拳銃持って午後会社に戻ってくるとは誰も思わない。半導体企業「SiPort」で14日起こった事件は本当にショックだった。

ニジヤの前の駐車場で逮捕

金曜朝解雇されたテストエンジニアJing Hua Wu容疑者は、同日午後3時過ぎ普段着で会社に戻った。「今後のことを相談したいから」と元上司3人と会議室に篭り拳銃で全員殺し、自家用車で逃走。

付近捜査の末、翌朝10時45分ごろ自宅と同じマウンテンビュー市内で逮捕となった。なんと筆者もよく行く日本食スーパーNijiyaの並びで、ちょうどスポーツ店「Play It Again Sports」から出てきた人が、駐車場でパトカーから白人と黒人の警官が出てきて無抵抗の犯人を取り押さえ、手錠をかけた現場を目撃している。あんなところで何をしてたんだろう…。

IC対立と見る野次馬

「中国系エンジニアがインド系CEOを殺した」ニュースに、ここここのコメントは「インド系は口(英語)が達者だから」、「中国系は無口で何考えてるか分からない」など、“IC(印中)対立”というあらぬ方向に迷走している。ネットの書き込みが心ないのには毎度あきれるばかりだが、これには犠牲者の親族が「だったらなんでうちの従兄弟が殺されるんだ。彼は白人男性だ」と本気で怒っている。

拳銃

武器は22口径の拳銃。ヴァージニア工科大乱射事件でも使われてたっけ…。銃が無かったらこんな簡単には殺せなかったと思うけど、銃の無い日本の職場のトラブル殺人事件を見たら青酸カリ、包丁、農薬、バット…その気になればなんでも武器になることがわかる。

動機は?

最初「レイオフ」と思われていたのは後の発表で「業績で解雇」と分かった。会社の都合で首になるレイオフと、本人に問題があって首になる解雇では天と地ほども扱いが違う(有給のパッケージももらえないし後の就職に響くし)。

ちょうど銃コレクターの友だちが子どものピックに来たので、「あれはびっくりしたね…CEOこのフリーモントの人だよ…」と言ったら、彼は昔の上司がSiPortで働いてる関係で入社を誘われたこともあるらしく私の非じゃなく驚いたそうだ。「テストエンジニアはあんま解雇されないものだから。一度解雇されたら再就職は…ね」と言っていた。創業年から勤続4年で解雇となった理由って何だろう? 死人に口なしだからフェアじゃないけど、そこにも関心が集まっている。

容疑者は在米11年以上。6歳の双子と2歳の息子3人と妻と5人家族。マウンテンビューに3ベッドルームの家を持っており、噂によると「推定100万ドル近くの家はほぼ全額払い済み」で、金策に困ってるようでもないという。(UPDATE:この家を担保にテキサスやバンクーバーに家を買っていたが、不動産相場下落で購入価格を割り込んでいたようだ。ソース

―なんともやり切れない事件だ。

[Suspected gunman arrested in 3 deaths at Santa Clara chip startup - San Jose Mercury News]

November 9, 2008

アーロンチェアもアーロン収容所も:Aeron and Ahlone Spelled With the Same Katakana

 
Aeron Chair (c) H&M

When I posted an article about Herman Miller's Embody Chair, some readers pointed out that 'Aeron' is spelled 'アーロン' in Japan, not 'エアロン.'    So, I added H&M's press release just in case.  Aerobics is 'エアロビクス' and Aerosmith is 'エアロスミス,' but Aeron is 'アーロン.'  Weird.   'アーロン' reminds me of Aida Yuji's WWII memoires 'Prisoner of the British: A Japanese soldier's experiences in Burma' (original title:  'Ahlone Camp').

ギズのハーマン・ミラー社「エンボディー」の記事で「Aeron」を「エアロン」と書いたら「日本ではアーロン」とコメントがついた。念のため参照したプレリリのリンク足しておいたけど英語をカタカナにするのって悩まし…。アーロビクスでもアーロスミスでもアーロバイクでも好きにしてくれ。(UPDATE:消されちまったわい。調べた苦労が水の泡)

小林よしのりの『戦争論』でおなじみ、会田雄次の『アーロン収容所』は英語だと「Ahlone Camp」。ロンドンのCresset Pressが1966年発行した英訳版のタイトルは『Prisoner of the British: A Japanese soldier's experiences in Burma』(訳:Hide Ishiguro、Louis Allen)だが売れた形跡が全くない!当然か…

'Ahlone Camp' by Yuji Aida

November 8, 2008

シリコンバレーのトリビア31:Silicon Valley Trivia Quiz 31

Q:Who's this man Oprah Winfrey  leaned on
during Barack Obama's victory speech?
オバマ勝利宣言のとき
涙にむせぶ女王オプラ・ウィンフリーに
肩を貸してたこのラッキーな人は誰?


Mr. Man (c) Oprah.com

Although she arrived with Gayle and Stedman, Oprah says she ended up crying on someone else's shoulder. "Friends called me around the country and said, 'Who was with you?' I said, 'I don't know him, but he was very nice to me,'" Oprah says. "At one point I was just sobbing on his shoulder, mascara everywhere."


シカゴのグラントパークで次期大統領勝利演説を見守る10万人超の支持者の中にはオプラの姿もあった。「あれほど電気に打たれたように感情がこみ上げてくる夜は私も生まれて初めてでした」、「ただ泣きじゃくって、そこら中マスカラだらけにしちゃいました」、「肩貸してくれてありがとう、Mr. Man」。

A:
Sam Perry, Start-up Consultant in Menlo Park
スタートアップコンサルタント、サム・ペリー(メンローパーク在住)

"He is now the owner of the most famous shoulder in the world." - Mike Cassidy

シリコンバレーでオバマの資金集めと宣伝のボランティアをやっているサムさんは、感動で泣き崩れるオプラの前にたまたま立っていた赤の他人。バレーのオバマ選対事務所の仲間はマウンテンビューのコンピュータ歴史博物館で中継を見守っていたが、見慣れたサムさんの顔が30フィートの大画面に大映しになると上へ下への大騒ぎとなった。

後日オプラの番組に招かれて一躍時の人となったサムさんの自宅前にはマスコミが大勢詰めかけ、家の電話は1日中鳴りっぱなし。「世界で一番有名な肩を持つ」(地元紙)シリコンバレーの配管工ジョー、サムさんのお話でした。

トリビア30:Trivia Quiz 30


[Cassidy: Menlo Park's Sam Perry gave Oprah a shoulder to cry on, and the rest is history - SiliconValley.com]

November 7, 2008

オバマ勝利宣言の「a people」:Obama on Election Night


President-Elect Barack Obama on Election Night
Grant Park in Chicago, November 4th, 2008
バラク・オバマ勝利宣言:2008年11月4日シカゴ

"The road ahead will be long. Our climb will be steep. We may not get there in one year or even in one term, but America – I have never been more hopeful than I am tonight that we will get there. I promise you – we as a people will get there." (The reference to MLK's I've Been To The MountainTop)

(訳)この先も道は長い。険しい登り坂です。1年、いや1任期かけてもそこには辿り着けないかもしれない。でも、アメリカよ― 私たちはきっとそこに辿り着く、それを今夜ほど確かな手応えとして感じたことはありません。私はみなさんに約束します。―私たちは全国民一丸となって必ずやそこに辿り着くのだと。" (キング牧師「私は山頂に行った」を受けた下り)

Listening to the speech, I asked my son, "What does he mean by a people?  Dr. King said the same word at the end of his last speech. If you add 'a' to 'people' in Japan, your English teacher won't give you a point.  Is that like all people put together as one?"  He said "Yes."  Beautiful. 

As a sidenote; The proclamation, "It's been a long time coming, but tonight, because of what we did on this date in this election at this defining moment change has come to America" was a beautiful reference to "A Change Is Gonna Come" by Sam Cooke.

演説聴きながら「この"a people"ってのは日本の英語の授業でやるとバッテンなんだけど、キング牧師も最後の演説でこう言ってたよね、これって、“みんなひとつ”ってこと?」と聞い たら、息子が「そうそう」と答えておった。いい言葉。英語はこういう芸当ができるからなあ…。

冒頭オバマが高らかに宣言した「Change Has Come to America」は、サム・クックが1964年に歌った黒人初のメッセージソング「ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム」へのトリビュートね。

いや、それにしてもあの日はすごかった。例えばジム。みんなとっとと運動済ませて帰りたいから普段はテレビの前なんてオフの人以外いないのに、一般の人の喜びを伝える談話が入ると、ついついその涙に見入ってしまうんだよね。ふと気づくとみんなパンツ履きながらとか見てて、見てる者同士が言葉を交わしたり。いろんな肌の人が。こんなこと本当に今まで無かったよ。

November 4, 2008

キング牧師「私は山頂に行った」:I've Been To The MountainTop


"I've Been To The MountainTop"
Martin Luther King, Jr.'s last speech
Mason Temple, Menphis, Tennessee; April 3, 1968

[...] We've got some difficult days ahead. But it really doesn't matter with me now, because I've been to the mountaintop. And I don't mind.

Like anybody, I would like to live a long life. Longevity has its place. But I'm not concerned about that now. I just want to do God's will. And He's allowed me to go up to the mountain. And I've looked over. And I've seen the Promised Land. I may not get there with you. But I want you to know tonight, that we, as a people, will get to the promised land!

And so I'm happy, tonight.
I'm not worried about anything.
I'm not fearing any man!

Mine eyes have seen the glory of the coming of the Lord!!

-Full Transcript

(訳) この先には険しい日々が待ち受けています。でも今の自分には、それはもう本当にどうでもいいこと。何故なら、私はもうあの山頂に行ったからです。だから、囚われない。

誰でもそうであるように、私も長生きしたい。長寿はいいものです。でも今はもう、そんなことには拘らない。ただ神の意のまま実行したい、それだけです。

主は私に、山頂に登ることをお許しになった。そして私は山の向こうを見た。そして私はそこに、約束の地を見たのです。

みなさんと一緒にそこには辿り着けないかもしれない。でも今晩、みなさんに是非ともこれだけは知っていただきたい。私たちは全国民一丸となって、きっと必ずや、あの約束の地に辿り着く!

だから、私は幸せです。この夜。
心配することは何もない。
怖い相手は誰もいない!

“我が眼は主の到来の栄光を見た”*!

*「リパブリック賛歌(Battle Hymn of the Republic)」の歌い出し。「怒りの葡萄の酒倉を主は踏みつけている(He is trampling out the vintage where the grapes of wrath are stored)」と続く。南北戦争で奴隷制廃止を目指す北軍が歌い、戦後は人種差別撤廃を求める公民権運動で歌われた(参考)。


I'm still waiting for the historical moment...
オバマ当確を待ちながら。キング牧師暗殺前夜のスピーチ(全文)です。

Related:
キング牧師「私には夢がある」:I Have a Dream Speech
史跡めぐり・キング牧師の暗殺

UPDATE: オバマ勝利宣言の「a people」:Obama on Election Night

November 2, 2008

オバマ落選はsatomiの無投票のせい:CNNBC "Obama's Loss Traced To Satomi I."


My son sent this one to me. You can make your own here entering your name or your friends' names and email addresses to send them each a personalized version.

投票まであと2日。息子経由でこんなのが送られてきた。

「火曜の大統領選でマケイン候補が1票差で当選した。詳しく調べてみたところ、これはSatomi I.の無投票が生んだ票差と判明、全米が怒っている」という嘘ニュースである。各地から村八分の報告、「布団から抜け出せなかったなんて信じられない」という怒りの声、ブッシュからは「よくやった」と賞賛の声が続き、「11月4日は投票行こうね」と念押しするオチ。

この名前のところには好きな名前入れて動画カスタマイズできるよ。ここで「FROM」に自分の名前とアドレス、「SEND TO」にフルネームとアドレス入れて(足りない人は「ADD FRIEND FIELD」で増やせる)、下のボタン押すだけ。リンクが送られてくる。試してみてね。

ハロウィン殺人事件再び:Halloween Shooting in SC


A 12-year-old trick-or-treater was shot to death as he knocked on a door in South Carolina. An ex-convict who thought he was being robbed sprayed nearly 30 rounds with an assault rifle, AK-47, from inside his home, AP reported.

This reminds us of the Hattori Shooting in 1992 in which then 16-year-old Japanese exchange student, Yoshihiro Hattori, got killed in a similar situation. That time, the shooter was acquitted under Louisiana's "Kill the burglar" statute, though it's hard to believe one would assume someone ringing the doorbell or knocking on a door to be a burglar.

Unlike Louisiana's case, though, this SC guy is likely to be convicted guilty because an ex-con is not allowed to own a gun anyway...


サウスカロライナ州でハロウィンの晩(米時間10/31)、パパと弟(9)と3人でトリック・オア・トリート(お菓子おねだり)に回っていた12歳の男の子が、ある家の玄関のドアをノックしたところ家主に強盗と間違えられ、ドア越しにアサルトガンAK-47を29発浴び、間もなく死亡した。同行の家族、車で待っていたママと幼児は無事。

家主クエンティン・パトリック容疑者(22)は前科がある人なので法律で銃所持は禁じられている。即座に殺人、強迫、暴行などの容疑で逮捕された。服部剛丈君殺人事件(1992年)のときみたいな無罪放免は考えにくそう。



[Tragic Mistake in Halloween Shooting?, via Digg]